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鉢形城址は寄居駅から釜伏山に登るハイキングコースの途中にあります。鉢形城址は今では城址公園となっています。
寄居駅から歩いて5分ほどで荒川にかかる正喜橋に出ます。その対岸がもう鉢形城址です。橋を渡るとすぐ右に「史跡鉢形城跡」の石碑が立っています。
鉢形城の歴史 |
鉢形城築城は信長が本能寺で亡くなるより100年近く前の1476年(文明8年)頃、長尾景春により築城と伝えられています。
その後、1478年(文明10)に太田道灌によって鉢形城は攻め落されています。
時代は下がって、後北条の頃、上杉家の家老で、この地方の豪族である藤田康邦が北条氏康の三男氏邦を迎え入れ、その氏邦が鉢形城を大改築して城主となります。1560年頃のことです。こうして鉢形城は北条氏の北関東支配の拠点となったのです。
1569年(永禄12)には鉢形城は武田信玄に攻撃を受けています。
1574年(天正2)には上杉謙信に鉢形城下に火を放たれています。
そして、1590年(天正18年)秀吉の小田原攻めの一環として5万の軍勢に攻められました。
この時の秀吉方の武将には前田利家や上杉景勝、浅野長吉、木村一など。そして本多忠勝らにより背後の車山から大砲を撃ち込まれ、甚大な被害を受けたようです。その後氏邦は投降しています。
ちなみに氏邦はその後前田利家の領地金沢に移り余生をおくったそうです。
徳川幕府は鉢形城の余命を許さず取り壊されてしまいました。
それにしても結構有名人が関係しているので、名前が出てくるだけで面白いですね。太田道灌からはじまり、武田信玄・上杉謙信、そして前田利家・本多忠勝。こんな田舎の城にこんな歴史上の人物がかかわっているなんて、空想するだけでも楽しいですね。
鉢形城址めぐり |
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それでは城址めぐりをしてみましょう。それ程広い範囲ではないので、ハイキングのついでに歩いて回れます。
正喜橋を渡って信号を右に折れると、先の写真の「史跡鉢形城跡」の碑が右に見えます。そのまま車道を登ります。実はもう鉢形城址の中にいます。車道が鉢形城址の中を通っているのです。ゆるく左にカーブしています。その先の右にトイレが見えてきますので、そこから鉢形城址の公園内に入ります。
トイレの横に歩く道がありますのでそれを上ります。すぐに荒川の断崖の上に出ます。ちょっとのぞくと、その下には玉淀の川原が見えます。
左に行ってください。崖上の歩道をやや登りながらいきます。以前林業試験場が管理していたこともあり、いろんな木が植えられて雑木林風になっています。東屋があって、鉢形城の歴史が簡単に書かれた看板もあります。
さらにいくと、それ程歩かずに本丸跡に出ます。特に何もありません、ただ登りや段があって、なんとなく城跡かなと思える程度です。
さらに道を崖に沿って登っていってください。すると思わぬ碑を見つけられるでしょう。
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田山花袋が鉢形城に来て読んだ五言絶句の漢詩です。
とても私には読めませんし意味も分からないのでちょっと調べてみると、
「襟帯山河好 雄視関八州 古城跡空在 一水尚東流」
と書いてあるそうです。
意味は「素晴らしい山や川、関八州を見渡せる場所、古城の跡は何故か空しく、一水(荒川)はなおも東に流れる」というような意味だそうです。かなりの私の意訳あり。
ちなみにこの碑の筆は武者小路実篤だそうです。
こんなのを見つけるとちょっと得した気分になりますね。
さて一度車道に戻ってください。道の反対には林業試験場の建物だった所に、今ではシルバー人材派遣の事務所があります。
車道を右に進むと大きく右にカーブしています。そこに真直ぐに小さな道が入っています。でも、そちらでもありません。真直ぐな道のすぐ左にもう一本道が隠れています。それを下りてください。正面に大きなサクラの木が見えます。
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このサクラはエドヒガンです。つい数年前までは回りに隠れて頭しか見えませんでしたが、整備され下におりると全貌がよく見えます。
見事な桜です。樹齢は150年くらいだそうです。桜はそれ程長生きの木ではありませんので、150年でもたいしたものです。
よく見ると一本の木というよりも株立ちになっているようです。なかなかの根回りです。
花の時期はソメイヨシノより一週間ほど早いようです。この写真は3月27日に撮ったものです。
こんな見事な桜を見ると梶井基次郎の文を思い出さずにはいられません。
「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故(なぜ)って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。」
参照 「インターネットの電子図書館、青空文庫」
梶井基次郎 「桜の樹の下には」
まして、ここは兵共が夢の後の城跡なのですから。
と、ここで突然ですが、この桜に勝手に名前を付けたいと思います。その名は『大福桜(だいふくざくら)』。ふざけた名ではありません。鉢形城の最後の城主北条氏邦の夫人の名が『大福御前』と言います。その名からとったものです。『大福』ですから縁起もいいでしょう。また、この桜は一本桜ではなく、十二本の株立ちの桜です。おそらく元は一本の桜で、それが人的か自然かはわかりませんが何らかの原因で倒れ、そこから新しい芽が出て十二本もの株立ち桜になったようです。という事は、一から十二に増えたという事で、子孫繁栄で、これまた目出度い。大福桜の名はやはりぴったりだと思います。
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ではまた、車道のカーブの所まで戻りましょう。真直ぐの小さな車道に入ってください。実はもう一本小さな車道に入ったばかりの所に右に歩く道が入っています。そちらにいってください。正面に赤い木の鳥居が見えます。その下をくぐって階段など登ると、左に開けた場所に出ます。芝生が敷かれ、子供たちが走り回れるようなスペースです。そのまま参道を歩いてください。正面に稲荷神社が見えてきます。
ここで注意してください。まだ神社までは結構あります。やっと見えたところです。参道の右の木を注意深く見て歩くと、左の写真のような「合体木」を見つけることができます。合体木とは複数の木がくっつき、一部で完全に接合させて、栄養の受け渡しなどをしてる木の事です。
実はこの合体木は筆者お気に入りなのです。まだほとんどの人が知らないと思います。
合体木自体はそれ程珍しいものではありません。神社仏閣などには名物になっている合体木もあります。夫婦や親子の仲むつまじい姿に例えられて、目出度いものとされていることが多いようです。自然界でも結構あって、私も何度も見たことがあります。
でも、ここの合体木は特別なのです。
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この二本の木はエノキとコナラです。写真で見るとよくわかりますが、エノキに巻きつくようにコナラがうねってくっついています。
まず、根元から1mくらいまで接合しています。そこで一度離れ、コナラが巻きつくようにして3m位の所でもう一度接合しています。その接合部の最上部が見所なのです。
エノキの二股に分かれた部分にコナラがくっついています。右の写真を見てください。その二股に分かれたエノキが裂けているのがわかるでしょうか。コナラの圧力で裂けはじめたのです。
仲良く見えていたエノキとコナラ。しかし、これはコナラの裏切りです。そこで私はこの合体木を「コナラの深情け」と命名しました。かってに。
裏切りなんて擬人化してもしょうがないじゃないか、との声が聞こえるようです。その通りです。ただ遊んでいるだけですからご勘弁を。でもこの合体木は見ものですよ。
さて、城址めぐりに戻りましょう。
とりあえず。正面にある稲荷神社にお参りをして、すでに左奥に見えている。砦の入り口のような建物に向かいましょう。左、車道よりをぐっと回らなければいけないようです。
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その砦の門のような建物は新しく、この城址公園の象徴のようなものです。これが無いと、全くの址だけですから。これがあると、少しは想像力の手助けになるでしょう。ここを戦国時代の武士たちが闊歩していたのを想像しやすいでしょう。ここは見晴らしのいい場所なので、少しお休みでもして氏邦になったつもりになるのもいいでしょう。
一休みしたら、そのすぐ南にある神社に行ってみましょう。諏訪神社です。もう一度お参りして、先に進みます。
八高線の踏切があります。その先の十字路を右に行くと中間平のある釜伏山方向です。もうちょっと寄り道しましょう。そこを逆に左に行きます。八高線を渡りなおして、坂を下りると、深沢川の橋があります。深沢川は天然の堀として鉢形城を守ってくれた川です。川を渡って少し登ると、左奥に大きな駐車場と建物が見えてきます。そこは鉢形城歴史館です。
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ちょっとここの中を覗いて行きます。入館料は200円です。
中には鉢形城の歴史を綴った物や、鉢形城の模型や城跡から出てきた遺物が展示されています。城好きにはたまらないかもしれません。
また、ここでは時々、特別展のようなものをしているようです。私が取材に訪れた時には「武蔵の刀工」展が催されていました。沢山のゆかりのある刀が展示されていました。写真撮影は禁止でしたので中の写真はありません。あしからず。
鉢形城歴史館の利用案内と共に刀工展のポスターが外にありましたのでその写真を載せておきます。
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これで大体鉢形城址はひとめぐりです。さっきの十字路まで戻って、釜伏山方面に向かいましょう。